音楽

西洋音楽史と音楽家たち

第2回「ビンゲンのヒルデガルト(1098-1179)」

2017年3月12日

森のアトリエオーナー 宮本孝志

中世ヨーロッパ最大の賢女と言われるドイツの聖ヒルデガルトは、ライン・ヘッセン地方に貴族の娘として生まれ、後にベネディクト会の修道女、修道院長となりました。女性であるがゆえに正統的な学問は身に着けませんでしたが、幼児から神の啓示の幻視体験を持ち、「汝の見るもの,汝の聴くものを語れ」という啓示にしたがって、後に『道を知れ(スキヴィアス)』を初めとする神秘神学3部作の書物を著し、教皇や皇帝にも認められて預言者として知られるようになります。人生の後半はビンゲンの町の郊外にルーぺルツベルク修道院を開いて院長となり、神学,宇宙論,博物学,霊性,医学,薬草学、音楽などの広い範囲にわたる書物を残しました。

さて、今のクラシック音楽の源流となったのは、キリスト教会の典礼音楽であるグレゴリオ聖歌です。しかし、ヒルデガルトはその専門的な訓練はついぞ受けたことが無かったにもかかわらず、音域が広く教会旋法ではない独自の修道院典礼用音楽の作詞作曲を行いました。それは「天の啓示の調和のシンフォニア」と名付けられた77曲にのぼるまことに美しい単旋律聖歌であり,アンティフォナ(交唱聖歌)43曲,レスポンソリウム(応唱聖歌)18曲,セクエンティア(続唱)7曲,ヒムヌス(賛美歌)5曲,キリエ1曲で成り立っています。そして修道院の聖務日課として、天上の世界と一つになるために神の賛美の歌を歌ったのです。また、他に唯一、宗教的音楽劇『オルド・ヴィルトゥトゥム(神の諸力の劇)』を書きましたが、これは後のオラトリオやオペラの先駆けとでも言うべきものです。そしてこれらの曲はすべて、自らは単なる神の道具に過ぎないとして、幻視と啓示をもとに神の言葉として作られたもので、他に類のない宗教的創作物となっています。

さて、中世の教会音楽は、宇宙や天体は数理的な調和の法則によって成り立ち動いているとする古代ギリシャ哲学(ピタゴラス、プラトン、プトレマイオスなど)の考えを受け継いでいます。そして、音楽を1)耳には聞こえない宇宙の調和としての音楽、2)人間の魂と身体の調和としての音楽、3)耳に聞こえる楽器の音楽、以上の3種に分けました。そこで、教会ではこれら調和の法則とはすなわち神の創造の業であるとし、天上界における神と天使の調和の世界を思い、耳に聞こえる音楽はその見えざる法則を地上世界の人間に垣間見せるものであるとしたのです。そして音楽は、今の芸術音楽とは違い、この世の喜びをもたらすのではなく、あくまで天上の神の世界に至る道程としてのみ位置づけられていたのです。

ヒルデガルトはその考えをさらに推し進め、もともとアダムとイヴの原罪の前には、人は楽園にいて調和の世界の音楽を聞いていたが、堕罪した今では心身の不調和で病んでいる状態にある。しかし、心のうちに調和の音楽を覚えていて限りない憧れを持っており、音楽を奏で賛美の歌を歌う事によって天上界を思い出し、精神も体も癒され、神の世界に向かう事ができるとしたのです。
ヒルデガルトの音楽や著述などの活動や、癒しと救いの多彩な活動はすべて、こうした神の世界の調和が現わされているこの世界と、天上の神の世界とを、心や行いを正しくする事によって繋ぎ、神のもとにあるべき人の姿に戻ろうとする試みだったのです。