2018年3月16日
宇宙と音楽への憧れを音楽史とたどる
森のアトリエ ディナーコンサート 2018
第196回 「バロックからロマン派初期へ」
岩本貴文, 白石由子
西洋音楽史と音楽家たち
第34回「ルネ・デカルト」
南阿蘇ルナ天文台・森のアトリエ 宮本孝志 2018.03.11
ルネ・デカルト(1596年- 1650)はフランスの哲学者、数学者です。
よく知られている「我思う、ゆえに我有り」という命題は、哲学史上最も有名な命題の一つです。その著作「方法序説」の中で、デカルトは何が真実であるのかを知るために、あらゆるものをまずは疑ってかかります。そして最後に、たとえ世界のすべてが夢や幻のような偽りの世界であったとしても、それを認識している自分が無ければ偽りの世界でさえ存在しないのだから、自分というものの存在は疑いようがないと結論づけたのです。これが近代哲学の始まりとなりました。
では、そのデカルトがなぜ西洋音楽史に登場するかと言えば、実は彼が22歳の時に書いた初めての著作が、音楽をテーマにした「音楽提要」だったからなのです。
西洋音楽史を振り返ってみると、中世では、ギリシア以来の天上の調和の世界を地上に再現しようとしてきた音楽が、ようやくルネサンスに入ると人間の喜びを歌い始めます。感覚の喜びを禁じ、数学的な学問であるとされてきたそれまでの音楽が、人間の感覚へ甘美で快い喜びをもたらすことを目的とするように、180度転回しました。音楽は抽象的な世界の法則ではなく、具体的な人間の感覚世界のものになったのです。
そしてデカルトが生きたバロック時代になると、その音楽を楽しむ人間である自分とは何か、「我」とは何かが、もっと研ぎ澄まされていきます。それまではまず全体としての世界があって、その神秘的な調和の法則(つまり音楽)にひざまずく一人の自分がいたのですが、デカルトによれば、今や世界はこの「自分=我」なしには存在せず、音楽も存在しなくなったのです。それは、音楽の目的が人間自身になったということだったのです。
では、音楽を存在させることになるこの「我」とは何なのか。
それは、音楽を甘美で快いと認識する感覚・情念こそが「我」であり、「我」に働きかけ、そのような感覚・情念を引き起こすものが音楽だということになります。
デカルトは、「音楽提要」の中で、「音楽の目的は快を与え、我々の内にさまざまな感情を惹き起こすことにある」と明確に宣言しています。ここから、音楽とは自分の内面の表現であると言う今日の芸術観へとつながっていくのです。
一方で数学者であったデカルトは、人間の感覚に快の甘美さを与えるのは、数学的な比例によるとして和音や不協和音の快・不快を思弁的に論じて、中世大学において天文学や音楽が数学の一種だと捉えられていた流れをこの著作にも引き継いでいます。また自分で実際に演奏活動をしたわけではないようなので、今日の意味での音楽芸術家ではないのかもしれません。しかし、時代の精神でその本質をするどく洞察したデカルトの目は、近代科学が進展する原理を、当時のバロック時代の音楽の中にも見通していたのです。
今日では忘れられているこの「音楽提要」は、ルソーの「音楽辞典」をはじめ音楽学の文献には18世紀までは定番で記載されていたということです。